第六編 赤穂浪士はけしからん

はじめに

今日、12月14日は赤穂浪士が吉良邸へ討ち入りした日ですね。
忠臣蔵」は、今も語り継がれ、何度も時代劇や映画になっているほどの人気の物語です。

福澤諭吉先生は、そんな「忠臣蔵」の物語をバッサリと批判しながら、
最近仕事をしていると必ず言葉に出てくる「コンプライアンス(法的遵守)」の重要性について、
わかりやすく説明してくれています。

SEを守る国や会社の役割

国や会社はSEの代表として、頑張っているSEが快適に仕事をできる環境を作る役割を担っている。

国や会社がきちんとやってくれれば、SEは安心してシステム開発に従事できる。

仮に、国や会社が何もやってくれなければ、悪い顧客が納品後に入金を渋ったら、SEは必死に代金の回収にあたらねばならない。相手が逃げたら、必死で見つけ出し、隠し資産を暴き、即座に差し押さえる。

しかし、そんなことを毎回やってられないし、やろうとすれば莫大な費用と労力がかかるだろう。

だから、SEは、会社や政府に委託し、悪人を取り締まるなど、本来のは業務に従事できる環境を整備してもらっているのだ。

SEや会社は、委託料として、役人への給料や諸経費を政府に税金(所得税法人税など)の形で支払うという契約を結んでいる。

また、SEは会社へ対しても「管理費」などの形で「雑用」にかかる費用を間接的に支払っている。

法とは何か?

政府は国民の代理であり、会社はSEの代理であるということは、国や会社が決めたことに対しては、SEも責任を持たなくてはならない。

つまり、政府が決めた法律や会社が決めた規則は、厳格に守らなければいけない。

同様にSEが、快適に働くために会社と社内規則を守るという行為も同様である。

法律や規則を破るということは、自分たちが快適に働くためのルールを破るということだ。

法律を破ったことで政府や会社に罰せられるのは、周りのSEに罰せられるのと同じことだ。

つまるところ、SEは二つの役割を持っている。
一つ目は、自分の代理としての政府や会社を立て、悪人をやっつけ、善人を守る役割。そして二つ目は、政府や会社と約束したルールをしっかり守って善人として保護を受ける役割だ。

このようにSEは政府や会社と約束して、政府に仕事を委託したわけなので、ルールに背いてはならない。

強盗すら懲らしめてはならない

しかし、日本ではルールを守らなかったときに受ける罰を恐れるが、ルールそのものを尊重するという意識が少ない。

そこで、次に私刑がだめな理由と法律や規則の尊さについて改めて述べる。

例えば、あなたの家に強盗が入ったとしよう。

家族を脅し、金品を要求してくることもあるだろう。

家の主人としては、警察に通報し、強盗を取り押さえてもらうよう要請するのが本来の仕事だが、そうは言っていられない。

このまま放っておいては、財産だけでなく、家族も危険にさらされる。

そこで、自分たちで強盗を取り押さえ、その後、通報すると言うこともあるだろう。

取り押さえる際に、棒や刃物を使い、強盗を傷つけることもあるだろう。

足の骨を折ったり、最悪の場合、殺してしまうこともあるだろう。

これは、自分たちの命と財産を守るための自己防衛措置であり、強盗の罪を咎め、罰するためにやったことではないだろう。

罪人を罰する権利は裁判所だけがもっており、我々は持っていない。

強盗を捕まえ、拘束した後は、我々は強盗を殺すのはもってのほか、殴るどころか指一本触れてはならない。

警察へ通報し、その後は裁判に任せるのみである。

もし、強盗を取り押さえた後、怒りに任せて殺めたり傷つけたりした場合は、無罪の人に対しリンチするのと変わらない。

法を犯せば被害者でもムチ打ちの罰を受ける

例えば、ある国に「10円を盗んだ者は、ムチ打ち100回の刑、他人の顔面を蹴っ飛ばした者もムチ打ち100回」という法律があったとしよう。

この国で、強盗が10円を盗んだが、家の主人に取り押さえられ、拘束された上に顔面を蹴っ飛ばされた時、強盗は10円を盗んだ罪でムチ打ち100回の刑を受け、主人も他人の顔面を蹴っ飛ばした罪でムチ打ち100回の刑を受けるのだ。

法律とはこれほど厳粛なものなのだ。

赤穂浪士はけしからん

上記を考えれば、敵討ちはやってはいけないということが良くわかるだろう。

自分の親が殺されたとしよう。犯人は、もちろん殺人者としての罪人だ。

この殺人者を裁けるのは政府だけであり、被害者の子供であっても復讐は許されない。

越権行為であるだけでなく。国民としての職分を見誤り、政府との約束を踏みにじったに等しい。

万が一、政府がこの殺人者を不法に擁護し、無罪判決を下したら、判決に対し、政府へ異議を唱えるべきなのだ。

決して自ら制裁を加えてはならない。

例え、その仇を街中で見かけても、手をかけてはならないのだ。

江戸時代に、浅野家の家臣が主人の仇討ちといって吉良上野介を殺した事件があった。世にいう「赤穂義士」「忠臣蔵」の話である。

全くもってけしからん。

赤穂浪士はどうするべきだったのか?

この時の日本の政府は徳川幕府だ。浅野内匠頭吉良上野介も浅野家の家臣もみな日本の国民であるから、政府の法律に従い、政府の保護を受けるという約束を取り交わしている。

しかし、吉良上野介から不当ないやがらせを受けた際、浅野内匠頭は幕府に訴えることをせずに、怒りに任せて自ら吉良上野介を斬ろうとし、双方の喧嘩に発展した。

それを受けて幕府は浅野内匠頭切腹を命じた。しかし一方で、上野介へは罰を下さなかった。

この裁決は、「喧嘩両成敗」の原則に反しており、確かに不公平と考える者がいても不思議ではない。

浅野家の家臣も、裁決に不満があるのならなぜ政府に訴え出なかったのか!

四十七士できちんと協議して、それぞれが法で定められた手続きに従い、一人ずつ順番に直接幕府に直訴するべきだったのだ。

ロクでもない政府なので、最初の数人は訴えに耳を貸してもらえないどころか、逆に捕らえられ、殺されることもあっただろう。

ただ、何人殺されようとも、恐れることなく、次々に訴え出ては殺される、ということを繰り返し、四十七人もが原理原則に従っていれば、悪名高き徳川幕府といえども動かざるを得ず、上野介にも適切な罰を下し、公平な判決へと修正されただろう。

こういうことをして初めて「義士」と呼べるはずなのに、この道理を知らず、国民の立場にいながら法律を軽んじ、怒りにまかせて上野介を殺したのは、国民の職分を取り違え、権利を越えたリンチであると断じざるを得ない。

この時は幸いにも、幕府がこの赤穂浪士に対し、適切な処分をしたため、無事に治まったが、もし、幕府が黙認していれば、吉良家も黙っているはずがなく、今度は赤穂浪士に対しての敵討ちが行われたであろう。

その後、今度は赤穂浪士がさらなる敵討ちを、次は吉良家、そして赤穂…と、双方の一族が滅び去るまで続いていただろう。

再現なく殺し合いが続く、この世の終わりのような世界となってしまうだろう。

勝手な越権行為が秩序を破壊する

かつて日本には、農民や商人が武士に対して無礼を働いた際、武士の裁量で斬り殺してよい「切り捨て御免」と言う、遺憾極まりなルールがあった。

幕府が公に「私刑」を、許したものである。

法律は、政府によってのみ作られるものだ。社内規則は法律の範囲で経営者の責任で作られるものだ。両者とも個人が独自に作るものではない。

セクハラ、モラハラ、パワハラなどは、会社での役職と権限を取り違え、上司が部下に対し、過剰な労働を強いたり、人としての尊厳を傷つけたりする例だ。

それらは「切り捨て御免」と同様で、上司が勝手に政府や会社の権限を振りかざす行為である。

また、社員の方へ目を向けると、勤務時間を水増ししたり、私的に使った費用を経費として虚偽申請したりする行為はもっての他である。

会社の資産管理は会社のルールに従って行われるべきなのに、社員の勝手な判断で着服する行為が許されるわけがない。

たちの悪いコンプライアンス違反とは

最もたちの悪いコンプライアンス違反は、談合や粉飾決算など経済事件につながるような違反である。

エンロン事件でもわかるように、会計上の不正行為は、世界経済のバランスを脅かすことすらある。

実際に法を犯した当事者は「会社を守るために仕方なくやった」と弁明するかもしれない。

私腹を肥やすためではなく、「会社のため」という大義名分で違反するから、余計にタチが悪い。

自分が英雄になったと勘違いする輩もいるが、実際は英雄から程遠い行為であることを認識しなければいけない。

やってよいことと、やってはならないことは、法で厳格に決められているのに、個人の勝手な判断で法を破り始めたら、秩序が崩れるのは当たり前のことだ。

コンプライアンスの重要性

コンプライアンスの重要性をわかっていない者は、違反を犯したときの罰を恐れるが、法律自体の貴さを知らないため、巧妙に違反しようとする。

法を犯したことで、罰せられたとしても、尊い法律や規則を破ったことの重大性について罰せられたという思いよりも、バレたから罰せられたと自分の不運を嘆く。

こんなことでは、快適に仕事をすすめる環境は実現し得ない。

とにかく決まった法律や規則は守らなければならない。

その法律がどうしても業務に差し障りがある場合は、遠慮なくその旨を政府や会社に主張すればよいのだ。


(おまけ)我が慶應義塾での出来事

最近、我が慶應義塾でもコンプライアンスにまつわる小さな出来事があった。

華族の太田資美君が、一昨年前に私費投じて米国人の教師を雇っていたのだが、任期が来たので、新たな米国人教師を雇い入れようとした。

本人から内諾をもらい、太田君が役所へ、彼を文学および科学の教師として雇う申請を出した。

しかし、外国人教師として雇うには、本国での学科卒業の免状が必要とのこと。

しかし、彼が免状を持っていなかったため、雇用が認められなかった。

語学の教師として雇うのなら、免状が不要なので、取り敢えず語学教師として許可を貰えばよいのでは?という意見もあったが、やはり、決まりは厳格に守るべきと考えた。

この教師は、免状など持たずとも、我々が求めている素養を持っていることは明白だし、学生にとっても本当に貴重な機会が得られるチャンスであったにもかかわらず、我々は法の遵守を優先し、泣く泣くその年の雇用を諦めたのである。

このエピソードは、あくまで私的で些細なことであるが、コンプライアンスについての議論の参考になると考え、最後に付記させてもらった。

おすすめ本

学問のすゝめ (岩波文庫)

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学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

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学問のすすめ (まんがで読破)

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